2009-06-13
■ [漫画][映画]『ウォッチメン』


WATCHMEN ウォッチメン(ケース付) (ShoPro Books)
- 作者: アラン・ムーア,デイブ・ギボンズ,石川裕人,秋友克也,沖恭一郎,海法紀光
- 出版社/メーカー: 小学館集英社プロダクション
- 発売日: 2009/02/28
- メディア: 単行本
- 購入: 81人 クリック: 998回
- この商品を含むブログ (259件) を見る
「あらかじめ断っておきますが無駄に長いです。」
観ていないし読んでいない人向けの話
「これは"ヒーローなんて真面目に考えたら馬鹿みたいですよね"、というところから始まったお話なのだと思います。一般常識で考えてスーパーヒーローなんてものはいないし、仮にいたとして彼らが間抜けに見えることは言うまでもありません。日本の例で言えば、ウルトラマンはインベーダー、仮面ライダーは化け物、ズバットは自意識過剰のコスプレ野郎。世の理から外れた者の扱いは畢竟そのようなものであり、もっともらしさを醸し出しつつヒーローもののアクセルを踏むには、その社会との噛み合わなさを設定なりストーリーなりによって何とかすることが大事です。
スーパーヒーローのメジャーリーグであるところのアメコミがその点に気づいていないわけがなく、 1980 年代からスーパーヒーローの嘘臭さと対峙する試みはあったんですよ、という作品が『ウォッチメン』なんでしょう。いや多分。アメコミは詳しくないけど。」
あらすじ
「ドラえもんで説明します。」
「一昔前。あちこちでマスクをかぶった自称ヒーローが相次いでデビューしました。彼らはおおむね腕っぷしが強いだけのコスプレ野郎 & 女郎どもであったのですが、彼らの DIY 活動はそれなりに盛り上がり、スーがスーっと消えてパーマンなるヒーローチームを結成してマスメディアの注目を集めるまでに至りました。旧き善きマスクドヒーローの時代です。
なお、ここでは簡単のために、パーマン 2 号ブービーの正体がジャイアンであると思ってください。」
「しかしながら、その後 10 年でいろいろなことが起こりました。ジャイアンがパー子をレイプしかけたり、パー子がヒーローもアイドルも辞めて家庭に入ったり、パーマン一号が引退して暴露本を書いたり、まあそんなこんな。やがてパーマンは解散し、ヒーローの正義は微妙な感じになっていったのです。」
「さらに 10 年後。ヒーロー界に一人のルーキーが現れました。物理を超越した力を持ち、青くて全裸で頭に毛が一本もない憎いやつ。歩く地球はかいばくだん。彼の登場は国家間の軍事バランスを左右するほどの一大事であり、彼が参加した戦争は大勝利。ビビった敵国との冷戦状態は逆に強化されてしまいました。本物のスーパーヒーローは存在するだけで世界に影響を及ぼしてしまうのです。
彼以降、新たなキャラクターたちが続々とデビューし、ヒーローの新時代が到来します。"人類一賢い男"こと出来杉君、パーマン解散後も活動を続けていた外道ジャイアン、パーマン一号からパーマンの名を受け継いで親の遺産で変な UFO を作って乗り回すスネ男、チビでキザでコンプレックス持ちのマスクマンのび太、パー子の娘(いんだよ細けぇことは!)、しずちゃん。ヒーロー集団・ウォッチメンの夜明けでありました。」
「しかしながら、またまた数年後。ヒーローによる自警行為の影響でモチベーションをなくした警察官たちはストライキを起こし、結果、治安はヒーローたちだけでは収拾つかないほど悪化し、地に渾沌は満ち溢れます。本物のスーパーヒーローでなくても、ヒーローは存在することで世界に影響を与えてしまったのです。
悩んだ大人たちは、 1977 年にヒーローたちの自称警備な暴力行為を明確に法律違反とする暴対法もといキーン条例を制定しました。変なコスチュームを着て悪人をしばき倒すと警察に取り締まられる世の中がやってきたのです。ヒーローの息の根は止まりました。ある者は冒険をやめ、ある者はアングラ化、ある者は政府公認のお抱えヒーローになっていったのです。」
「というわけで、そんなこんなを経てようやく舞台となる 1985 年。海をまたいだ敵国との冷戦も盛り上がってきた時代。ドラえもんが政府の研究所に住んでハイテクの研究をしつつしずちゃんと同棲したり、出来杉君が会社を興して大金持ちになって出来杉式ダイエットの本だとか出来杉君フィギュアを売ったりしているさなか、ジャイアンが殺害されます。もぐりの自称ヒーローをやっていたのび太君はジャイアンが殺された理由を追いかけはじめます。もしかして社会がヒーローを本格的に拒絶しはじめたのか、そんな疑問を抱きつつ。」
高度に発達した喜劇は悲劇と区別がつかない
「わざわざドラえもんで説明したのは"青くて全裸で頭に毛が一本もない憎いやつ"って言いたかっただけでもあるんですがそれだけだがそれだけではなくて、この作品の持つ居心地の悪さを多少なりとも伝えたかったからです。ということにしておく。」
「自分の解釈だと『ウォッチメン』という作品は、ものすごくタチの悪いブラックジョークです。真面目で社会的なテーマを取り扱ってますが、それはブラックジョークであることと矛盾しないどころか調和するといいますか。私は差別と黒人が大嫌いです。これ、アメコミ文脈で最初に公開されたときは今よりもっとパロディとして認識されてたんじゃないかな。『劇画オバ Q 』みたいな感じで。」
「昔からの言葉を引くまでもなく、悲劇と喜劇は表裏一体、同じものの別側面であって、洒落にならない事態というのは冷静かつ客観的に引いてみればみるほど喜劇的に見えてくることがあります。『ウォッチメン』が成立した 80 年代当時、冷戦真っ只中の核戦争一歩手前というコンテキストでは、この作品はある意味ぜんぜん洒落になっていないわけです。人々が自分を取り囲む冷戦構造からどうあがいても逃げられないさなか、スーパーパワーでみんなを守ってハッピーエンドに持ち込んでくれるはずの絵空事アメコミを読んでみたら、なぜかそれは"ヒーローを詳細にエミュレートしたら社会規範がぶっこわれて冷戦が加速したでござるの巻"だったという、そんな小粋なギャグとして『ウォッチメン』は機能していたのかなと思います。」
「この作品の喜劇性というのは飛行機のファーストクラス席で『マッハの恐怖』を読む行為に似てると思っていて、ある意味悲劇的であるけど、確かに喜劇的でもある、としか言いようがないんじゃないでしょうか。飛行機の中でわざわざ飛行機事故の本を読む時点で、その客が事故を気にしていることは疑いようがありません。そのような小心さは確かに笑えるし、なおかつそれをわざわざ『マッハの恐怖』を読むことで客観視できているとアピールする態度も笑える。しかしながらそのような恐怖を持ちながら飛行機に乗らざるを得ない状況に追い込まれてしまい、もう『マッハの恐怖』でも読んで笑い飛ばすしかない状況、それは確かに悲劇だし、中にいる当人にとっては全く笑い事ではない。『へうげもの』の古田織部は酒井忠次の海老すくいにそうした悲劇かつ喜劇である状況を読み取り、もろもろひっくるめて最終的にボヒヒヒヒと笑ったわけでございます。その例に倣い、それがしも『ウォッチメン』についてはなるたけボヒヒヒヒと笑う感じで語っていきたい。」
「なお、『ウォッチメン』のアイコンである血染めのピースマークは戦争と平和の対立を表現しているほかにも、喜劇的かつ悲劇的で最終的に冷笑的という作品全体のスタンスもあらわしていると解釈してます。あれいいですよね。平和のシンボルにひと手間加えて面白いものに仕上げるメソッドは板垣恵介的"雑巾は飾れ"と古田織部的"ゆがませる!"を内包していて、いろんな方面に応用が利きそうなので珍重していきたい。余談。」
で。面白いのか。
「驚きの煮詰まり感といいますか、原液です。消化にえらく時間がかかるとも長いこと反芻して楽しめるとも言います。面白いのかというとひどく面白いですが、すっきり楽しめる娯楽作品を期待するべきではないです。むしろパッと見で盛り上がれる素敵ポイントは割合として少ないんじゃないでしょうか。原作・映画とも。」
「とにかく、それぞれ独特の思想を持ったヒーローたちがお互いに牽制しあいながら事件に関わっていき、その途中で"ヒーローとは何か"が描かれるという話の特性上、すっきりと割り切れる回答なり解釈なりは最初から用意されておらず、なおかつことあるごとに社会の矛盾とヒーローを衝突させて悲劇かつ喜劇な冷笑的小芝居が展開されるという、観る人の社会認識を煽ってやろう感満載のお話なのです。この手の鑑賞者を逆に試すがごとき作品を抜き打ち人間性クイズと呼んで珍重していきたい今日この頃ですが、それはともかく、『ウォッチメン』とはそのような挑発的態度に基づいた、あらかじめメタでありネタでもありつつベタを突き詰めた作品だと認識してます。……面白いですよ。うん。」
原作と映画の比較、というかメディアミックスは意味があるという話。
「ただ、原作が漫画として読みづらいということ、また映画にはその欠点がなくとっつきやすいということは特記しておきたいところです。ストーリー面の話ではなく、単純にメディアの差として。」
「アメコミを読み慣れていない立場からの評価ですが、原作の読みづらさには格別のものがありました。これは年代的に仕方ないと思うので欠点としてあげつらう意図はないんですが、コマ割がきっちりと等分された長方形で、なおかつその中の視点を移動させて絵を見せる映画的手法というか発想は、コマ割そのものを自由に変形させて視点の移動なり時間的感覚なりを表現する現代日本漫画の文法とは真っ向から対立していて、正直読みづらくて仕方なかったです。」
サンプル : 冒頭のページ
「ものすごくわかりやすいカメラアクションですね。
この対比例として日本漫画の例を出すなら、やはりジョジョでしょうか。信者なので。」
「ここではコマの大きさ・長さは
- 時間的な割合
- 内容の重大さ
を同時に表現してます。右上の静止 -> 一瞬の噴上裕也の感情表現 -> 右下のインパクト -> 左端の即応といった具合に。時間的な短さがコマの狭さで表現されることもあるし、かといってコマが大きい = 時間が長いわけではない。そこは匙加減というか経験的なものですが、このコマ割が使えないとどうなるかというと、右上と右下のコマはどちらもアップの画像になってしまい、相対的な右下の重要性が薄れてしまうわけです。等間隔のコマ割ではシーンの強さを示す武器が一つ減ってしまうということ。これは今の漫画に慣れていれば慣れているほど辛いでしょう。」*1
「……という問題は、しかしながら映画では裏返ります。映画的フレームの画像であることは映画版ではそのまま"原作に忠実に"再現できるということで、映像化されることで違和感は消えてしまうのです。冒頭のシーンにしても丸まんま原作同様カメラワークで撮られていたわけで、その点から映画版は純粋にとっつきやすいと感じました。」
「内容についても言っておくと、映画版の方がわかりやすいという評価です。時間的制約から枝葉が落とされているので、より本筋が捉えやすい構成になっている感じ。ここは賛否両論あるところでしょうし、実際削られたりワンカットで片付けられた部分も奥行きがあって面白いんですが*2。
原作イコール原液のアナロジーに続けるなら、映画版は"原液を割ったもの"と言えます。鉄鍋のジャン脳の人には断るまでもないことですが"割る"、"薄める"というのは別段悪い意味ばかりではなくて、口当たりやのどごしをよくするためには欠かせない調理です。そういう意味で映画版の評価は自分の中で高いし、原作映画どちらかだけ観たいという方には映画をおすすめします。」
(以下ネタバレ。心置きなく趣味の話。)
観た人、読んだ人、或いは観て読んだ上ジョジョとか藤子不二雄とか柳生とかが好きな人向けの話、或いは余は如何にしてオジマンディアス LOVE となりし乎
「だってオジマンディアスって柳生宗矩じゃん!」
「と結論だけ言っても余人に伝わらないので順を追って話します。」
コメディアン、或いは自界警備員の話
「『ウォッチメン』のテーマのひとつに"自警団が許されるか問題"があります。ヒーローを"自称ヒーロー"と読み替え、その行動が社会からどのように許され、また許されないかを問うというメソッド。もちろんこれはあらゆるヒーローが暗黙的に持っている問題で、昔からよくネタにされていた部分でもあり、たとえば偉大なる藤子ファック不二雄先生は『中年スーパーマン左江内氏』のラスト回及び『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』という形で DIS っています。が、それは後述。」
「ヒーローがなぜ存在を許されるかの答えとしてよく採用されるのは「彼が正義の味方であり、その行動は善意に基づいた社会に益する行為だからだ」というものです。しかし『ウォッチメン』はこれをヒーローの行動原理として採用しません。正確には、ミニッツメンの時点ではそのような正義は社会的に通用していて、そこは理想的な古き善き社会としてセピア調で描かれています。しかしながらコメディアンマンさんの「人が殴りたいだけなんだろ?」という問いは正義という建前を否定し、ヒーローとて己のしたいことをしているだけだという認識を突きつけたわけです。そう問われて言葉に詰まるフーデッド・ジャスティスの姿は、ぼんやりとした無邪気な正義の存在を疑問視させます。」
「至極当たり前の話として、個人の欲望と社会秩序は時に背反するもので、一定のルールを課さなければ社会は社会として成り立ちません。そのルールを越えた個人の行動は、それが社会に益であるか害であるかを問わず、ひとまずルール違反であるわけです。想定外の事態は想定外なので秩序を担保しません。法治国家では"ルール違反がなぜ許されるか"と訊かれれば"別に許してないですよ"としか言いようがないのです。」
「コメディアンが他のヒーローに抱く苛立ちというのはこの点の自己認識、『おひっこし』風に言うならメタ認知が大事なんだメタ認知が、に起因しているのではないかと自分は解釈しました。彼にとって「ヒーローだから平和を守ります!」というその他ヒーローたちは"自分が何をやってるかもわかっちゃいねえガキども"であり、自分の影響力なり行動の結果生まれるであろうものをろくに想像すらしていない。そこを十分知った上でなおかつヒーロー稼業を続けるのがリアル・ヒーローである、ということが言いたいんだと理解しました。彼の理屈ではおそらく、それさえできていれば行動の背景に個人の欲望が混ざっていようが、ただ暴れたいだけの仮面の変態であろうが、社会の一部として許容されうる。メタ認知が大事なんだメタ認知が。『ウォッチメン』の覚悟完了組がそろって"あいつはガチ"と評するコメディアンマンさんの面目躍如です。彼は状況を理解している人間であり、自分も彼を極めて常識人だと思います。まあ人格的にはクズですけど、クズだからこそ社会を守ります! というか。ホンモノは危ないからね。彼は彼なりに自分が暮らす社会の維持に努めていたんでしょう。だからこそその秩序に蹴りを入れてニヤニヤしている連中が許せなかった、というのは"冷たい怒り"の概念で説明できるんじゃないかと思いますが、これは余談。そう考えると実に萌えるキャラです。しゃ、社会のルールを踏みにじっていいのはメタ認知したオレだけなんだからな!*3」
「もうひとつコメディアンが気づいていたと思われるポイント。それは自分のパワーが及ぶ範囲です。彼は自分の暴力が、そのままではいわゆる匹夫の剣であることを自覚していたように思われます。後年政府の手先となって暗殺に手を貸したり、ベトナム戦争に参加して敵をぶちころす姿には暴力×政治力 = ヒーロー力! という認識が伺えます。満面の笑みを浮かべながら火炎放射器でベトコンどもを消毒するシーンは、後ろで巨大化している Dr. マンハッタンと相まって『ウォッチメン』三大爆笑ポイントの一つだと思いますが、さておきそこには個人と社会がある意味手を取り合って調和したグロテスクな安定感があります。個人的欲望から発した破壊衝動が政治力と結合して国を守る力となり社会を保障する、詐欺師用語で言えば Win-Win の関係。でも核戦争だけは勘弁な、というのが物語前夜のコメディアンさんの生活でした。」
「パワーの使い道と正義の関係については、参考として藤子不二雄『中年スーパーマン左江内氏』の最終回が思い浮かびます。ごく普通のサラリーマン左江内氏がひょんなきっかけでスーパーマンスーツを手に入れスーパーマンとして活躍するこの連作集は、最終回において、左江内氏が政治家と関わるエピソードで幕を閉じました。政治家の高邁な思想に触れて"この人を守ることこそスーパーマンの使命だ!"と感激した左江内氏ですが、結局その期待は裏切られます。絶望する左江内氏の前に現れたのがパーマン 4 号、通称パーやんでした。パーやんは言い切ります。」
百人いれば百人の正義がある。当たり前のこっちゃがな。
「そんなむちゃくちゃな……と絶句する左江内氏に対して、パーやんは"スーパーマンの責任や使命を重く考えすぎるからよくない"と説き、その口で言うのです。ところで運送業のアルバイトに興味はおまへんか、と。」
「パーやんの中ではパワーを個人的利益のために使うことは特に否定されていません。正義や思想に裏打ちされていなくてもパワーの振るいようはあるし、であっても社会と折り合いをつけてやっていく方法はある。「正義とか興味ない、それより Win-Win しようぜ」というそのスタンスには若干のコメディアンを感じます。シニカルではあるんだけど健康的というか、人はできることしかできないというか。」
「コメディアン及びパーやんの在りようにはヒーローとて人であり、社会の掣肘を受けつつ何とかやっていくしかないという一種の諦念、または開き直りがあります。しかしながら『ウォッチメン』の中二病からすれば、そこはステップの一段目でしかありません。『ウォッチメン』は容赦なく仮定します。では、その社会の枷を超えられるヒーローはいないのか? 社会に制約されず己の数寄を貫くリアル・マンは?
そこで Dr. マンハッタンですよ。うわー。」
留保なき Dr. マンハッタンはなぜキモいのか問題
「『ハチワンダイバー』が生んだ侮辱表現に"キン肉マンでいえばジェロニモのようなもの"という言葉があります。超人に憧れるただの人の悲しみを表した極めて的確な形容で、ヒラコー発案の"勇次郎の前の末堂"に匹敵する名言ですが、『ウォッチメン』の登場人物というのはある意味全員がジェロニモのようなものと言えます。 Dr. マンハッタン以外は所詮みんなコスプレ自警団でしかなく、 Dr. マンハッタンだけが真のスーパーヒーローです。彼の存在によって世界の軍事バランスは崩れ、初代ナイトオウルをはじめとする旧世代ヒーローはコンプレックスを感じ、そしてオジマンディアスは Dr. マンハッタンでも抑止できない核戦争を抑止しようとしました。彼が『ウォッチメン』でもっとも重要なキャラクターであることは確かです。」
「 Dr. マンハッタンの設定は非常に空想的というか SF 的で、片手で戦車を叩き潰せるスーパーパワーを持ち未来を予知でき宇宙空間でも平然と存在できる超人は社会に合わせて生きる必要があるのか、またその際社会に合わせて生きることを望むのか、というのが彼の体現しているクエスチョンです。
結論から言うと、 Dr. マンハッタンは最終的に社会と決別して生きていく道を選びました。しかしそこまでに彼が社会へコミットする気がまったくなかったかというと、割とそうでもありません。悩んだ末になるようになった、という解釈が適当なんじゃないでしょうか。」
「 Dr. マンハッタンの面白いところ、みんなが興味を持つところといったら、真っ先にその特異な人格でしょう。彼の言動はある種の類型を推し進めたような珍妙な様相を呈していて、端的に言えばまあキモい。そのキモさがどのように成立しているか、というのは気になるところです。自分は『ダークナイト』のジョーカーの性格は割とストーリー上の要請から理解不明かつ感情移入不能に仕上がっており、読み解きはあまり意味がないと思っているのですが、対して Dr. マンハッタンはそれなりに理解可能な性格である気がします。
彼の性格的特徴を挙げるとしたら、主に 2 つ。」
- パワーゆえの中二病的全能感とか世界に対する責任感がない。
- 迷いがない。やたらと理屈っぽい。感情が摩滅しているように見える。
「このような人格に見える理由を考えるに、おそらく彼の未来予知の能力が影響しています。多分。」
「そもそもなんで人が社会に合わせて生きていく必要があるかというと、たいていの場合その方が楽だからです。社会契約といってもいいですが、最大多数の最大幸福のワンオブゼムとしてオレ幸福を実現するのが一番軋轢が少ないから。そのためにあくなき個人の欲望追求は社会から認められないわけで、まあ小中学校の教科書にも書いてある話ですね。
しかし、そのような功利的動機がない人には社会制約が通じません。
- ルールを無視してでもオレ幸福を追求したい人とか。
- ルールを改変できるのでオレ幸福の追求に問題が出ない人とか。
- もしくは、自分の意志で行動を決めていない人とか。
転生後の Dr. マンハッタンというのは (1)(2) に見える部分もありますが、実質 (3) 、自分の意志で行動"できない"ではないかと思うのです。また本人もある時点でそれを自覚し、ある意味悟りを開いてしまったと読みました。ケセラセラとは違う。ポジティブシンキングともネガティブシンキングとも違う。そもそもそんなことを考える必要がない。彼の行動はあらかじめそうあれかしと決まっていることであり、彼はただ粛々となすべきことをしているだけ。時代が進むにつれて脱ぐ面積がだんだん増えていく『ウォッチメン』三大爆笑ポイントの一つも、あらかじめそうあれかしと決まっていたことなんですよ。そうでなきゃ何で脱ぐのかさっぱり理解できないじゃないですか。いや実際理解できないんだけど*4。」
「そのように運命というベルトコンベアーに乗せられて進んでいく人、というイメージを、我々はプッチ神父いうところの"覚悟した幸福な者"で既に幻視しているはずです。 Dr. マンハッタンが理性的だったり幸せそうに見えたりするのはそういうことじゃないかな。運命を受け入れ、耐えられるように陶冶された、されてしまった人格。
ジョジョにおいてはこのような運命論的諦めは注意深く肯定を避けられており、それが第五部のラストで「目醒めることで何か意味のあることを切り開いて行く『眠れる奴隷』」という概念であり、第六部のラストでエンポリオが生き残ったことの意味だったはずです。 Dr. マンハッタンの造形にそのような優しさというか品のよさはなく、彼はいつも自分の行動なり欲望なりを留保しません。倫理ゆえに己の行動を律したり、意志によって世界を革命しようとか叩き潰そうとか、そういうことからかけ離れた場所にいるからです。」
「 Dr. マンハッタンがキモい最大の理由は、この"人は意志に基づいて行動する"という前提を否定していることと、その延長である"人は世界を良くしようとして生きる"という常識に反して存在しているからじゃないかな。たぶん。だから躊躇する必要も、他人の感情をいたわる必要もない。行動原理が推測できない人は一般的に気違いとして怖がられるもので、何らかの利に基づいて行動している人として Dr. マンハッタンを解釈しようとすると、確かに彼はなにそれこわい。ミス・ジュピターと気持ち云々で口喧嘩するシーンは
「あなたはわたしの気持ちがぜんぜん分かってない!」
「君は人の気持ちが分からない人の気持ちを想像したことがあるのか」
みたいに心の中でパラフレーズして読みましたが、それを言ってミス・ジュピターの感情が納得するかというとそんなわけはなくて、むしろ 100 パーセント話がこじれます。なんというたの相*5。しかしながら Dr. にとっては恋人との会話もベトナム戦争の帰結も、まず圧倒的に"在る"のであって、行動によって改善したり、まして議論で善悪を云々するようなものではない。受け入れて認めるしかないのです。その結果が個人的欲望に合致するか否かは余事であって。だからジェイニー・スレイターと別れるときに"若い女がいいんでしょ!"と言われて"まあそうだな"とか思っちゃうわけですよ。そう考えることが道義的にどうこうと振り返る必要もない。」
「つまるところ Dr. マンハッタンとは運命または現実という圧倒的強者と一体化してしまった人であって、ヒラコー曰く"Dr. マンハったんって書くと萌えね?"だそうですが*6、あの対話の余地のなさを保ったまま萌えキャラに翻訳するのは至難の業な気がしています。何だろう、正論クール? 現実クール? それって発狂するほどウザくないですか。暇があったら実装してみたいところです。」
「 Dr. マンハッタンの対照例を考えるとしたら、参考になるのは全き善の顕現であるスーパーマン大権現と、そのパロディである藤子不二雄『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』ですかね。スーパーマンは詳しくないので避けるとして、ウルトラ・スーパー・デラックスマン句楽兼人(くらく・けんと)氏の話。
氏もまたある日突然物理を超越したスーパーパワーを手に入れてしまった人ですが、彼の場合は運命というスーパーエゴが同時に降ってくることはなく、また自制心とか私的制裁がどうこうの理屈によるスーパーエゴも実装されていなかったがために、結果的に中二病的全能感全開の化け物に成り果てました。」
「パワーがあり、それを振るう意志がありながらメタ認知を欠いていたウルトラ・スーパー・デラックスマン。パワーがあり、メタ認知もありながら意志に基づいて動けなかった Dr. マンハッタン。しかしどちらも社会とは相容れないわけです。悲劇的でもあり喜劇的でもあります。
彼らは人間であったのか、という点を振り返ってみると、どちらも人間離れしていますが、個人的には両方とも人の範疇だと思います。一般に"人間的"という言葉は常に両義的に使われていると思っていて、理性的な態度を言い表す場合と、感情的な態度を言い表す場合が入り混じっています。そこはたぶん動物との相対としての"人間"と、無機物との相対としての"人間"がどちらも使われることから来る混乱なんでしょうが、バランスが悪くても、理性と感情を両方備えているうちはまだまだ人間じゃないでしょうか。
ウルトラ・スーパー・デラックスマンは理性が飛んでいるように見えて、頭のどこかで「不死身の自分は死ぬまで死ねないんじゃないか」という恐怖を感じていたわけだし、 Dr. マンハッタンは感情がすり減っていても多少の感傷とかは備えているわけで、あの冷静すぎる態度を指して非人間的と呼ぶのはあんまり正確じゃない気がします。人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である、芥川龍之介もそう言っている。」
「さて、じゃあパワーがあり、それを振るう意志もあり、なおかつメタ認知した者は最高のスーパーヒーローなんでしょうか。そこでオジマンディアスですよ。うわー。」
オジマンディアス、成功した柳生宗矩
「ここまでの文で見て取れるかと思いますが、自分は『ウォッチメン』をある種のセカイ系だと思っています。個人の感情なり意志なり行動なりが世界の存亡とダイレクトに関わってしまうという意味で。ただしそこにはボーイ・ミーツ・ガールはなく、ボーイ・ミーツ・ボーイすらなく、ただただヒーローたちは断絶している。たまたま Dr. マンハッタンが世界を左右するパワーを持っていたことを発端として、オジマンディアス、ひいてはロールシャッハまでもが世界の存亡に関わってきますが、結局はわずか数名の間でのディスコミュニケーションなのです。否定じゃなく、いい意味で。だからこそキャラ間の確執がとても面白いわけで。」
「オジマンディアスの立ち位置というのは端折って言うなら"天才に嫉妬する秀才"であって、そこになまじ優れているがゆえの増幅された劣等感とかを読み取るとものすごく生臭くて萌えるポイントになります。この際わたしの中の腐れ女子が以前からわめきたてている"出来杉君が如何に萌えるか"という話を開陳させてやってもよいのですが、それはまた別の物語として、ひとまず柳生宗矩との相似の話。」
「柳生宗矩とは柳生新陰流を徳川家剣術指南、ひいては総目付という大名たちを監視する役目まで引き上げた立役者であって、一般に伝奇作品では、江戸幕府序盤の不安定期を安定に持ち込むために動いた人、という扱いをされています。著作『兵法家伝書』には次のような一節があります。」
一人の悪に依りて万人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして万人をいかす。是等誠に、人をころす刀は、人を生かすつるぎなるべきにや。
「これを根拠としてかしないでか、各種伝奇作品での宗矩くんは幕府にとって都合が悪い輩を裏で始末する黒い人として描かれますし、必然、社会秩序を脅かす者に対しては非常な怒りを覚えるキャラであることが多いです*7。個人の命より社会が大事。」
「オジマンディアスはだいたいこういうことが言いたかったんじゃないかと思いました。」
「史実をなぞらなければならない伝奇作品においては、宗矩の対手が世界をぶち壊すようなパワーを持っていることは普通ありません。したがって宗矩が極端な強キャラであることはあまりないし、悪である宗矩がその悪を全うし世界そのものをぶち壊すこともありません。その留保がないキャラクターこそが他ならぬオジマンディアスではないか。と考え、自分は大変盛り上がったわけです。それでこそ転生した宗矩は地上最強のクソ野郎たりうる。史実さえ守らなくていいなら、柳生宗矩はいつか Dr. マンハッタンを超えてウザくなれるよ! なれるよ!」
「世界一賢い白アリのごとき小賢しさは、だから自分としては肯定的であって、魔界一賢い生物はときに魔界一愚かな行動を取る、と青膿ゼラは言った。オジマンくんに求められるのは徹底した小賢しさと、そこから論理的にどうしようもなく生まれてしまう見せかけのクレイジーさです。本物のスーパーヒーローと事を構えるのだから切り札は最後まで隠した上にさらに奥の手を持つくらいでないといけません。その全てわかってますよ感が表現された
予定?
ダン、私は昔の活劇映画の悪役ではないんだ。
君たちに妨害される危険がわずかでもあるなら、こんな重大なことを得々と説明したと思うかね?
35 分前に実行したよ
は『ウォッチメン』三大爆笑ポイントの一つだと思います。」
「彼のジェノサイドが許されるかという点は賛否両論あると思いますが、あれを許す許さないで語るしかない状況というのは、それ自体がたいへんウィットに富んだ冗談です。オジマンディアスの嘘がなかったら核戦争になっていたという解釈は、しかし全人類が"おまえら滅びちゃえ!"と念じた結果核ミサイルが発射されるわけじゃないのだから、結局虐殺する人と虐殺される人は分かれていて、あとは虐殺者同士どちらがよりマシかという判断にしかならない。そりゃ何千年も昔のチャイニーズジョークですよね。」
「とはいえオジマンくんにも自分が虐殺者であることの反省と覚悟はあり、原作だとよりそのあたりの悩み方があからさまに描かれてました。」
Dr. 「さらばだ、エイドリアン」
オジ「待ってくれ、その前に答えてくれ、私のしたことは正しかったんだな? 最後には…」
Dr. 「最後? 何事にも最後などありはしない」
「この多少ブレがあるバージョンをして人間的と評する向きもあると思いますが、個人的には映画版の泣かないオジマンディアスの方が好きです。完全にわかってやった行動である以上、ラストでごちゃごちゃ言うのは蛇足であるとの見解。中途半端に共感ポイントを作ったところで彼がジェノサイダーであることは変わらないわけだし、ならマッドヒーローとして貫き通した方がカッコいいんじゃないでしょうか。「わたしはこれと共に生き、これと共に死す。いまさら何のためらいがあろうか」ってフォーグラー博士も言ってた。」
「さておき、このあたりのパワーと意志の度合いの違いをプロットすると面白いんじゃないかと思い、ついでに頭に浮かんだ他フィクションの登場人物を混ぜてみたのが次の図。」
名前 | 影響度 | 漆黒の意志 |
---|---|---|
Dr.マンハッタン | 120 | 0 |
オジマンディアス | 80 | 100 |
ロールシャッハ | -50 | 100 |
コメディアン | -20 | 50 |
二代目ナイトオウル | -30 | -30 |
ミス・ジュピター | -30 | -70 |
一般人 | -100 | -100 |
柳生宗矩 | 50 | 80 |
プッチ神父 | 120 | 120 |
リンゴォ・ロードアゲイン | -70 | 120 |
バットマン | 10 | -10 |
ジョーカー | 10 | 120 |
へうげもの利休 | 50 | 70 |
句楽兼人 | 70 | 50 |
左江内氏 | 20 | -90 |
「数字は対数のつもり。影響度 -100 がだいたい 1 人の生死を左右できるかどうか程度、影響度 100 が全人類レベルの影響力。また、純白 -100 が人を殴るのも躊躇する程度で、漆黒 100 だと目的のためには全人類を巻き込むことも厭わないクラスです。"漆黒の意志"はみんな大好き『スティール・ボール・ラン』から借りた概念ですが、要するにいざというとき相手を殺すことも辞さない意志のことです。このパワーと意志が高いレベルで融合すると、世界人類にとってこの上なく迷惑な生き物が出来上がります。そういう人物は概して途方もなくウザいわけで、表の右上に近いほど傍迷惑なやつだと言えます。」
「オジマンディアス、及びロールシャッハが示したのは、影響力で下回っていても意志が上回っていれば世界を揺るがす生き物になりうるということです。度胸と根性など度胸と根性を出せばいくらでも沸いてくるのです。そう、そこでロールシャッハですよ。うわー。」
ロールシャッハ容赦せん!
「さっき Dr. マンハッタン以外はキン肉マンでいうところのジェロニモだって言ったけど、スマンありゃウソだった。一人例外がいます。我らがロールシャッハたんです」
「? 超人に憧れるただの人じゃないの?」
「しかしロールシャッハはジェロニモではありません」
「誰?」
「柴千春」
「……」
「……」
「つええ! こいつはつええ」
「オジマンディアスとの口喧嘩なんて負けるわけがありませんよ。"核戦争は気合よ"とか言ってる。絶対言ってる」
「ろぅるぁ、しゃっあっはっ! ろぅるぁ、しゃっあっはっ!」
「小芝居を繰り広げるわたしの中のヒラコー一味はさておき。
彼が持つ影響力というものはかなり小さいですが、物語の最後の最後でいきなり世界を革命する力(真実)を手に入れて覚悟を試されるシーンが圧倒的でした。一時的に地球上の命を全部背負った上で、それでも"妥協はしない"と言い切るところが狂人です。その結果 Dr. マンハッタンに消し飛ばされることまで覚悟した上で。覚悟だけを見るならオジマンディアスとロールシャッハは同等で、私欲を超えて自分の正義を貫き通す、たとえそのために何が失われようとやるんだよ、という考え方においてロールシャッハ模様のように左右対称です。実に傍迷惑なやつらです。」
「というわけで、ロールシャッハは実のところ Dr. マンハッタン、オジマンディアスと同レベルに人の話を聞かないやつだと思ってますが、その私心のなさ、意志のブレなさ、覆面もイケメンだ的デザインのよさなどから、たぶん『ウォッチメン』ファンはみんなロールシャッハたんが大好きだと思います。自分も大好きですし、顔のあの模様がウネウネ動いているところが見られただけでも『ウォッチメン』映像化の価値はあったと思います。絶対公式サイトでロールシャッハの顔の模様が延々変形し続けるスクリーンセーバーが配布されていると思ったのに。二次元平面で流体シミュレーションっぽいことをすれば実装できる気がするので誰か作ってください。やってることは白黒の点を適度に攪拌して Y 軸で反転コピーするだけなので、実は短いコードで書けるのかも。」
「一点だけ、いや二点、映画版ロールシャッハで不満だったところ。ひとつは少女誘拐犯を捕まえたときの、ロールシャッハ模様が笑っているように見えるシーンが再現されていなかったこと。」
「もうひとつはその直後の誘拐犯の殺し方。手錠でストーブにつないだ上でノコギリを目の前に置いて部屋に放火、というもって回った殺し方は、「片手を切り落としてでも生き延びる意志があるなら生きろ、なければ死ね」という覚醒ロールシャッハらしい覚悟教徒の試しで、あそこが好きだったのに。鉈でめった打ちより映えるはずなのに。格ゲー『ウォッチメン』が実装されたらロールシャッハのゲージ三本超必殺技になってもおかしくない萌えスーパーアーツなのに。残念です。」
「ちなみに格ゲー『ウォッチメン』は原作に忠実に作るとパワーバランスがものすごいことになるはずですが、自分的には「 Dr. マンハッタンは禁止だよね、常識的に考えて」という詭弁さえ通せればオジマンディアス無双で戦っていけるのでオールオッケーです。いやむしろオジマンディアスの政治外交拳がヒットして Dr. マンハッタンを火星まで吹っ飛ばす流れかも。それはそれで。」
ナイトオウル、ミス・ジュピター
「特に言うことはありません。いや、一つだけありました。『300』は中途半端な観方をしたのでこう言ってしまうのも何ですが、ザック・スナイダー監督は濡れ場をスローモーション + BGM だけで撮る演出をやめたほうがいいと思います。」
参考

藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版 (3) (SF短編PERFECT版 3)
- 作者: 藤子・F・不二雄
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2000/09/01
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 44回
- この商品を含むブログ (12件) を見る

- 作者: 隆慶一郎,田畑由秋,余湖裕輝
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2009/06/09
- メディア: コミック
- 購入: 5人 クリック: 39回
- この商品を含むブログ (8件) を見る
- 新版Kizurizm: 映画『ウォッチメン』のヒーローはみんなサイテー! だがそれがいい (http://kizurizm.blog43.fc2.com/blog-entry-3478.html)
- 『兵法家伝書』(id:xx-internet:20060228:p1)
*1:全くの余談ですが、ジョジョがアメコミ的コマ割を一切しないかというとそうでもない。ギャグとして使われた例はある。
*2:たとえば初代ナイトオウルのエピソードは削るには若干惜しかったけど、まああれは削るしかないでしょう。
*3:娘は認知しないけどな!
*4:いうまでもなく全裸は反社会的であるので、彼の反社会性とか他人の眼を歯牙にもかけてないっぷりを表現する演出としては大変よく機能しています。「ムム全裸!」「なんだか知らんが、とにかくよし!」
そういえば散さまも意味なくしょっちゅう裸裸裸裸体であった。
*5:はてな新書「たのしい相対主義」の通称。 xx の脳内で絶賛発売中。有志の手で英訳もされてるよ。
*7:まあそのような公憤とは別の私怨が混ざる場合も多数ありますが。
あとウォッチメンと聞くとブロッケンJr.に真っ二つにされた奴がどうしても思い浮かびます。ペンタゴン撃破で対立したウォーズマンとテリーマンの控え室での冷戦(シカト合戦)をじっと見つめるウォッチマン。悪魔騎士編でテリーマンだけ引き分けたのもウォーズマンと冷戦中だったからじゃないの?
アメリカ横断バラバラ遺体の方は割と本人もアグレッシブですので、自分の評価では Dr. マンハッタンより意志強ですね。傾国の美女は確かに適切かも。『SAMON』の左門とか。
覚醒ウォッチマンのスーパーアーツは終末時計でのカウントダウンですね。わかります。
と思ったら既に時間超人のデスウォッチ・ブランディングとして別の形で実装済みだったのでゆで理論は遍在する。
自分も出来杉くんは萌えるやつだと思っとります。『ヒストリエ』の主人公ポジションに彼を代入すると楽しい脳内補完が出来ますよ。数奇な運命に翻弄される出来杉君流離譚。のび太たちの見てないところでスキタイ人の顔になる出来杉君。
それはさておき、楽しく読ませていただきました。『ウォッチメン』は劇場まで見に行きましたがDVDもきっと買います。ありがとうございます。大変、結構なお手前でした。
必殺技もほぼそのようなもので…
http://www30.atwiki.jp/niconicomugen/pages/2076.html
・日本と最初は敵対、後にパートナーに
・巨大な力の暴走から無力な子犬を守る俺ってかっこいい(自作自演)(ジュニアも後に真似する)
・ネイティブアメリカンを利用した挙句切り捨て
・黒人キャラを前面に出して失墜した権威を回復
・ジュニアがイギリスと組んで悪の枢軸に立ち向かう
つまりテリーマンをそばでウォッチし続けるナツコさんこそゆで世界の真のウォッチメン。
最後に殺せよ、といったのは、ロールシャッハではなくコヴァックだったと思います。そのためにマスクひきむしってたしね。
ロールシャッハであれば、「殺せよ!」とか言う前に、迷い無くマンハッタンの喉笛に噛みつくか何かしたでしょう。
でもコヴァックには、それはできなかった。
真実のために世界を犠牲にすることは躊躇し、だからといって、ダンみたいに知らんぷりすることもできず。だからこそ「殺せよ」なんじゃないですかね。
オジマンディアスもマンハッタンも、皆、自分のなろうとしている理想、ペルソナがあって、そこになりきれてないのが、味だと思います。
どうも。「よくもぼくをだましてくれたなァ!」で呪詛吐いて退場ですね。想像して悦に入ります。なお DVD は 9/11 発売だそうです。
http://av.watch.impress.co.jp/docs/news/20090615_294055.html
> kisiz さん
愛があるページです。
> masa さん
コメントを拝見して思いついたんですが、もしかして「Who watches the watchmen?」の結論って「見張り同士が互いを見張る」なんでしょうか。
> ぜのすけさん
なるほど。ロールシャッハを貫き通せなかったからコバックスに戻るしかなかったと。そして最後に彼の日記だけが"ロールシャッハ"として世界をもう一度引っくり返そうとするわけですね。ロールシャッハさんマジパネぇです。
マトモとは思えません。覚醒ロールシャッハを友人と呼ぶのは
彼ぐらいです。
屑野郎、