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イン殺 RSSフィード

2017-01-23

  • 最近楽しんでいるものシリーズ『魯山人コラム』
    • しばらく前から連載されているきくち正太先生の『瑠璃と料理の王様と』は皆さんご存知という前提で話を進めます。
    • 北大路魯山人ッ! 東條英機、西田幾多郎、南方熊楠と並び称された 100% 四天王ッ! なんでいま魯山人かというと、『瑠璃と料理の王様と』ががっつり魯山人をフィーチャーしてるからですね。町の料理屋を営む若い女性主人公と相対するのは今魯山人と呼ばれミシュランを「タイヤ屋ごときの解説本をありがたがりよって、日本の店は日本人の美学で選ばれるべきだ。それができるのは、はばかりながらこの儂しかおるまい」とか評する重鎮というお話。言うことや精神性はおおむね魯山人のコピーなので、オードリー・バーン VS フル・フロンタルみたいなものです。
      • ポスト『美味しんぼ』時代、『孤独のグルメ』以降ではこういう食い物の上と下を明確に分けるような作品は徐々に少数派となってきていて、それは描くための前提知識なり取材なりに相当なコストがかかるので、ちょっと売れたら即ドラマ化という風潮の中で単純に供給が追いつかないからだと思ってますが、こういうタイプはそれはそれでしっかり残ってほしいので単行本は買っております。 Kindle 版だけど。
        • 『孤独のグルメ』の強さはあらゆる食の楽しみを赦したことだと思う。知識がなくても金がなくても気の利いたコメントが言えなくても日々の飯はうまいという、その作品思想が集合的無意識にがっつりと根を下ろしている。『わたしのご飯がまずいのはお前が隣にいるからだ』という漫画があるように、薀蓄は面倒くさいですからね。ユダヤ教よりキリスト教が広まるような、人々がいつしか南無阿弥陀仏と唱えるだけの宗派に帰依していくような。
    • 本筋に戻って魯山人コラムの話。率直な感想を言うと、こんな嫌なやつが今なお通人として歴史に名を残しているのであるなあと思いました。読みたい方は Kindle で 50 円か 100 円くらいの全部入り編集版が売られているので、それを買うのが手っ取り早いでしょう。自分が買ったのは画像付き版ですが、ルビの処理がところどころ間違っていてあまり質が良くなかったのでリンクを控えます。
      • 魯山ちゃんの文章をまとめて読んだことがない方の知識というと、自分の体験から想像するに、だいたい海原雄山の元ネタとしてのそれであって、例えばトゥール・ダルジャンで鴨をわさび醤油で食ったとか魯山人風すき焼きとかいう部分と思われます。あるいは青空文庫で読める短い食い物コラムを読んだとか。そのあたりの知識だけでもたいがい嫌なやつですが、陶芸や書に関する文章などもひととおり読んでみると、嫌味という以上に、もはや好戦的と言っていいレベルで他人に喧嘩を売っている。海原雄山だって自分の通った場所では毒を吐くにしても、わざわざ人様を名指しで批判することはなかった……、いやあったか。新聞の取材に答えて店をこき下ろしたりしてたね。まあ、あれより半歩先の毒怪鳥です。
      • 世間のインターネットの皆様はとっくの昔に魯山人の暴言 bot くらいのものは作っていると思われますが、ひととおり読んだ中で心に残ったベスト 3 を挙げておきます。

しかし、地方人は都会人のように、さまざまのものを体験していないから、勢い我田引水におちいる。あゆにしても、まつたけにしても、いろいろと経験してこれがいいということにならないと、ものの真価をつかむことはできないものだ。井の中の蛙で世界はこれだけだと思うようでは、いつまでたっても、ものの真価はつかめないのである。

例をあげると、土佐のかつおのたたきなどは、もっとも世間的に有名なものとしてひとびとの耳に入っているが、実際はたいしたことはない。なぜかといえば、土佐という海に面した国は料理が発達していないし、贅沢を知らないひとが多いからである。このため土地のひとにはかつおのたたきが、実に天にも地にもかけがえのないほど、うまく感じられるのである。

ある日……なんでもわたしの話はある日である。何月、何日といわねば気に入らぬひとがあったら、なんでもある日で片付けるわたしの話は気に入らぬかもしれぬが、わたしはつまらんことは一切覚えないことにしている。だからある日である。

ある日のこと、わたしは一人の歌人と話をした。名はいわぬ、というより忘れた。名まで覚えてありがたがるほどの歌人は稀にしかいないものだ。稀にだっていればこんなありがたいことはないが、まあ日本に一人いるか二人いるかくらいなものだろう。

さしずめ新橋あたりを例に、私の趣味に合格する店は二、三軒であろう。

      • ひどいでしょう。あえてコメントすると、無駄に攻撃的、自分以上に詳しい人間などいないという態度を隠さないというあたりが邪悪。一般的にコラムというものは愛されるための文章だと思うんですよね。連載や単行本になったりするものは特に、一定の読者の共感なり感心なりを呼んで多少いい気分になってもらうために書くもので、たまに露悪的なものがあったとしても、いかにも反発を呼びそうな内容を書き続けるメリットが少ない。魯山人の文章にはそういう可愛げが見られないわけです。ネイキッドというか。
        • やや長いが『素人製陶本窯を築くべからず』(http://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/49982_37777.html)もひどい。美大生を雇って古来の焼き物を再現しようとした金持ちに対して「金の無駄だからやめとけ。高い給料で画家を雇ったら名画が描けるのか? 絵では誰もそんなことしないのに、焼き物ではよくこういう勘違いする人いるよね」と語りかける話。言っていることは一理ある。しかし、「猫の飯食う茶碗だって出来るものか」は言い過ぎだったと書いておいて主張自体は一歩も譲歩しないという、火を消す気が欠片も感じとれない戦闘民族の時候の挨拶みたいな文章。
      • しかしながら、この人に美点がないかというとそういうわけでもないんですよね。講演の内容を書き起こしたと思しきものや数々の文章を見ても言ってることは一貫しているし、やっていることが真剣であるのはどうやら確からしい。料理と器は夫婦のようなもので片方をおろそかにしては成り立たぬと言っては窯を立てて満足のいく器を焼き始める人ですからね。
        • 書画に関しては基本的に古いものほどいいという認識だったり、素朴な大衆感覚に近い部分もある。『河豚食わぬ非常識』(http://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/50000_37754.html)でとにかくふぐを食えと力説してる部分もだいぶ図太いがほほえましい。人格的にどうかと思う点は多々ありますが、面白いというのは否定できないのが魯山人の名が残った理由なのかなと。

わたしはひとがなんと思おうとかまわぬ気で告白するが、今日わたしほど美食に体験を持っている人間は世間にほとんどない。朝から晩まで、何十年来片時も欠かさず美食の実験に浸っている。まったくわたしのようなものはまずないと信じられる。この点では僭越ながら世上広しといえども、自分は美食家として唯一とはいわないが稀有の存在であると信じている。もとよりそれが善事とも悪事とも思わないこと、もちろんだ。

偉いこととも思わねば、馬鹿な所業だとも思わぬ。ただそういうふうに生まれ合わしてきただけだと思っているまでではあるが。とにかく、誰がなんといっても美食没頭の体験においては人後に落ちない自信を有している。従って、あらゆる美食を尽くしていると告白するに躊躇しない。この日夜飽くなき美食何十年の実際生活を基本として至公至平に判断するとき、ふぐは絶味も絶味、他の何物にも処を異にすると断言してはばからないのである。

ii 2017/07/10 22:08 「河豚食わぬ非常識」の参照先が「握り寿司の名人」になってますね

xx-internetxx-internet 2017/08/14 17:07 失礼しました。リンクを修正しました。

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